千人塚

千人塚

 東日本大震災以来、各地で防災の取り組みが盛んになっていますが、今日はこの倉敷地方で明治にあった大水害の記念碑を訪ねてみました。
 時は明治17年(1884)8月25日、岡山県南部を襲った台風は、夜になって吹き返しの風となり、水島灘から打ち寄せる高波と高潮が相まって、福田新田の堤防が各所で決壊。当時の福田新田五か村(北畝・中畝・東塚・南畝・松江)の被害は甚大で、流失家屋742戸、犠牲者536人に上ったそうです。
 ここ、福田町広江にある「千人塚」はその時の身元不明犠牲者256人を埋葬して祀ったものだそうです。
 倉敷市のライフパークなどがある福田公園から南下、福田公園の両側の2本の道が合流してすぐのところにあるコンビニの横を東へいります。おっとそこへ「千人塚みち400米」という案内石碑があります。
 私は車で上りましたが、文字通りすぐのところでした。墓地や遊園が併設された公園になっています。道路より一段高いところにその石碑はありました。「明治18年8月」といいますから、災害の1年後に岡山県令(知事)が建立した大きな石碑です。「ああ悲し、夫れこれに埋葬せるは、暴風怒浪の為に害せられし者・・・・」という書き出しで始まる名文が刻まれていました。あ、原文は漢文ですが、前に読み下し文があり、私の理解を助けられました。
 別の解説文では「当時の岡山県では被災者には義援金をもとに義援金が配られ、復興作業には多くの被災者が雇われ、その現金収入が生活再建に役立った・・・」などと記されています。今の日本で、関西大震災のときでさえ「個人補償はできない」と冷たく言い放たれたことを考えると、あの明治憲法のもとでさえ、今より住民寄りだったのではないか・・・などと考えてしまいました。関西大震災の時、神戸の県議会議員が「これは個人保証なしには絶対復興できません」とテレビで言っていたことを強烈に思い出しました。
 近くには3年忌や100年忌などの仏塔がありますが、私は岡山県の災害史を考える際、この地は早島の戸川家記念館の「嘉永洪水絵図」とともに2つの『聖地』ではないかと思いながら、現地を後にしました。


当時の福田新田の地図です。